【真田山長谷寺】真田一族の最初の菩提寺|真田三代が眠る「長谷寺」の御朱印
真田山長谷寺(しんでんさん ちょうこくじ)で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「真田山種月院長谷寺」
所在地:長野県上田市真田町長4646
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越道「上田菅平IC」から国道144号経由で約15分、JR上田駅から上田バス(真田経由菅平高原行き)で「真田」バス停下車徒歩約15分
戦国ファンなら一度は訪れたい聖地、長野県上田市にある「真田山 長谷寺」をご紹介します。
上田といえば「上田城」が有名ですが、真田一族の本当のルーツに触れるなら、ここ長谷寺は絶対に外せません。

「六地蔵」
駐車場から墓地の脇の坂道を登っていくと、両脇に3体ずつお地蔵様が並んでいました。
■長谷寺の歴史
長谷寺は天文16年(1547年)信濃小県郡真田郷を領した真田幸隆が居城・松尾城内(真田氏本城)にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建しました。
慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に、徳川勢に放火され焼失してしまいました。
その後、長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる信之(昌幸の嫡子)により幸隆夫妻と昌幸の菩提所として保護されていました。
元和8年(1622年)幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、松代で真田山長國寺を開山しました。
長谷寺は明治23年(1890年)に火災によって焼失しましたが、昭和53年(1978年)に本堂などが再建されています。

階段を登って境内に入ると左側に鐘楼が建っていて、お参りする時に鐘をつく事が出来ます。
■真田幸隆
永正10年(1513年)
信濃・小県の名族、滋野一族に一人の男が生まれた。
のちに「攻め弾正」と称される智将――真田幸隆である。
しかし、その出自は今なお謎に包まれている。
海野棟綱の子とも、あるいは真田頼昌の子とも伝わるが、確かな記録は残されていない。
後世、「真田幸隆」の名で広く知られる彼の本名は「幸綱」
だが、その名以上に、この男の生き様こそが歴史に刻まれることとなる。
天文10年(1541年)5月
海野平の戦い――
滋野一族は武田・村上連合軍の前に敗れ去り、没落する。
一族は関東管領・上杉憲政を頼り、上野へと落ち延びた。
すべてを失った幸隆は、長源寺に身を寄せる。
だが、この流転の中で一人の僧と出会う。
後に長谷寺の開山となる禅僧・伝為晃運。
この出会いが、のちの真田家の精神的支柱を生むことになる。
天文16年(1547年)。
幸隆は、甲斐の若き虎――武田晴信(のちの信玄)に仕えた。
そして、失った故地・真田郷を取り戻す。
帰還を果たした幸隆は、松尾城に伝為晃運を招き、真田一族の祈りの場として長谷寺を創建した。
それは、再興への第一歩であった。
だが、戦場は容赦しない。
天文17年(1548年)、上田原の戦い。
幸隆は武田家重臣・板垣信方の旗下として参陣する。
しかし、村上義清に隙を突かれた信方は討死。
武田軍は屈辱的敗北を喫した。
この敗戦は、幸隆の胸に深く刻まれることとなる。
そして天文20年(1551年)
運命を変える一戦が訪れる。
武田晴信は、難攻不落と謳われた砥石城の攻略を幸隆に命じた。
正面から攻めれば必ず敗れる――
誰もがそう考えたその城を、幸隆は「戦わずして」落とす。
5月26日。
わずか一日での陥落。
それは力ではなく、“策”による勝利だった。
記録(高白斎記)には「乗取」と記されるこの戦い。
内応、調略、裏切り――
さらには弟・矢沢頼綱をも巻き込んだ一大策略であった可能性すらある。
敵将すら城内で討たせ、血を流さず城を奪う。
これぞ、真田幸隆の真骨頂であった。
この功績により、幸隆は旧領すべてを回復。
さらに砥石城代に任じられ、武田家中でも異例の出世を遂げる。
知略に優れるのみならず、自ら槍を取り戦場を駆ける武勇をも兼ね備えた武将。
人は彼をこう呼んだ。
――「攻め弾正」。
国人領主でありながら、譜代重臣に並ぶ地位。
それは、実力で掴み取った栄光であった。
永禄2年(1559年)
主君・晴信が出家し、「信玄」となる。
それに倣い、幸隆もまた髪を下ろし、
「一徳斎幸隆」と号した。
この時より、「幸隆」の名が後世に伝わることとなる。
永禄4年(1561年)
川中島、第四次決戦。
幸隆は嫡男・信綱とともに別動隊を率い、妻女山への夜襲という危険な任を担った。
武田軍の命運を賭けた作戦の中核――
そこに、この男の信頼の深さが表れている。
その後も上野攻略において躍動する。
岩櫃城、嵩山城、白井城――
次々と敵城を攻略し、ついには要衝・箕輪城代を任されるまでに至る。
もはや一国人の域を超えた存在であった。
だが、時はすべての武将に平等に訪れる。
永禄10年(1567年)
幸隆は病を理由に家督を嫡男・信綱へ譲り、戦場を去った。
そして天正2年(1574年)5月19日。
砥石城にて、その生涯に幕を下ろす。
すべてを失った敗者から、知略で国を取り戻した復活の将へ。
真田幸隆――
その生き様は、後の真田一族の礎となり、やがて「日本一の兵」へと繋がっていくのである。

ちょうどお昼時にお伺いしてしまいましたが、本堂を入ったところにお賽銭箱と書置きの御朱印が置いてありました。
本堂の裏手には真田幸隆夫妻、真田昌幸公の墓所もあります。
上田城から車で15分ほど。
真田一族の情熱と歴史を肌で感じに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
2022.06.09参拝

「真田山種月院長谷寺」
所在地:長野県上田市真田町長4646
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越道「上田菅平IC」から国道144号経由で約15分、JR上田駅から上田バス(真田経由菅平高原行き)で「真田」バス停下車徒歩約15分
戦国ファンなら一度は訪れたい聖地、長野県上田市にある「真田山 長谷寺」をご紹介します。
上田といえば「上田城」が有名ですが、真田一族の本当のルーツに触れるなら、ここ長谷寺は絶対に外せません。

「六地蔵」
駐車場から墓地の脇の坂道を登っていくと、両脇に3体ずつお地蔵様が並んでいました。
■長谷寺の歴史
長谷寺は天文16年(1547年)信濃小県郡真田郷を領した真田幸隆が居城・松尾城内(真田氏本城)にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建しました。
慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に、徳川勢に放火され焼失してしまいました。
その後、長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる信之(昌幸の嫡子)により幸隆夫妻と昌幸の菩提所として保護されていました。
元和8年(1622年)幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、松代で真田山長國寺を開山しました。
長谷寺は明治23年(1890年)に火災によって焼失しましたが、昭和53年(1978年)に本堂などが再建されています。

階段を登って境内に入ると左側に鐘楼が建っていて、お参りする時に鐘をつく事が出来ます。
■真田幸隆
永正10年(1513年)
信濃・小県の名族、滋野一族に一人の男が生まれた。
のちに「攻め弾正」と称される智将――真田幸隆である。
しかし、その出自は今なお謎に包まれている。
海野棟綱の子とも、あるいは真田頼昌の子とも伝わるが、確かな記録は残されていない。
後世、「真田幸隆」の名で広く知られる彼の本名は「幸綱」
だが、その名以上に、この男の生き様こそが歴史に刻まれることとなる。
天文10年(1541年)5月
海野平の戦い――
滋野一族は武田・村上連合軍の前に敗れ去り、没落する。
一族は関東管領・上杉憲政を頼り、上野へと落ち延びた。
すべてを失った幸隆は、長源寺に身を寄せる。
だが、この流転の中で一人の僧と出会う。
後に長谷寺の開山となる禅僧・伝為晃運。
この出会いが、のちの真田家の精神的支柱を生むことになる。
天文16年(1547年)。
幸隆は、甲斐の若き虎――武田晴信(のちの信玄)に仕えた。
そして、失った故地・真田郷を取り戻す。
帰還を果たした幸隆は、松尾城に伝為晃運を招き、真田一族の祈りの場として長谷寺を創建した。
それは、再興への第一歩であった。
だが、戦場は容赦しない。
天文17年(1548年)、上田原の戦い。
幸隆は武田家重臣・板垣信方の旗下として参陣する。
しかし、村上義清に隙を突かれた信方は討死。
武田軍は屈辱的敗北を喫した。
この敗戦は、幸隆の胸に深く刻まれることとなる。
そして天文20年(1551年)
運命を変える一戦が訪れる。
武田晴信は、難攻不落と謳われた砥石城の攻略を幸隆に命じた。
正面から攻めれば必ず敗れる――
誰もがそう考えたその城を、幸隆は「戦わずして」落とす。
5月26日。
わずか一日での陥落。
それは力ではなく、“策”による勝利だった。
記録(高白斎記)には「乗取」と記されるこの戦い。
内応、調略、裏切り――
さらには弟・矢沢頼綱をも巻き込んだ一大策略であった可能性すらある。
敵将すら城内で討たせ、血を流さず城を奪う。
これぞ、真田幸隆の真骨頂であった。
この功績により、幸隆は旧領すべてを回復。
さらに砥石城代に任じられ、武田家中でも異例の出世を遂げる。
知略に優れるのみならず、自ら槍を取り戦場を駆ける武勇をも兼ね備えた武将。
人は彼をこう呼んだ。
――「攻め弾正」。
国人領主でありながら、譜代重臣に並ぶ地位。
それは、実力で掴み取った栄光であった。
永禄2年(1559年)
主君・晴信が出家し、「信玄」となる。
それに倣い、幸隆もまた髪を下ろし、
「一徳斎幸隆」と号した。
この時より、「幸隆」の名が後世に伝わることとなる。
永禄4年(1561年)
川中島、第四次決戦。
幸隆は嫡男・信綱とともに別動隊を率い、妻女山への夜襲という危険な任を担った。
武田軍の命運を賭けた作戦の中核――
そこに、この男の信頼の深さが表れている。
その後も上野攻略において躍動する。
岩櫃城、嵩山城、白井城――
次々と敵城を攻略し、ついには要衝・箕輪城代を任されるまでに至る。
もはや一国人の域を超えた存在であった。
だが、時はすべての武将に平等に訪れる。
永禄10年(1567年)
幸隆は病を理由に家督を嫡男・信綱へ譲り、戦場を去った。
そして天正2年(1574年)5月19日。
砥石城にて、その生涯に幕を下ろす。
すべてを失った敗者から、知略で国を取り戻した復活の将へ。
真田幸隆――
その生き様は、後の真田一族の礎となり、やがて「日本一の兵」へと繋がっていくのである。

ちょうどお昼時にお伺いしてしまいましたが、本堂を入ったところにお賽銭箱と書置きの御朱印が置いてありました。
本堂の裏手には真田幸隆夫妻、真田昌幸公の墓所もあります。
上田城から車で15分ほど。
真田一族の情熱と歴史を肌で感じに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
2022.08.08 22:52 | comment(0)
【世良田東照宮】日光からお引っ越し!?徳川氏ゆかりのパワースポットへ行ってみた
徳川発祥の地、国指定史跡・新田荘遺跡「世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)」で御朱印を頂きました。
2022.05.18参拝

「世良田東照宮」
所在地:群馬県太田市世良田町3119-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:東武伊勢崎線「世良田駅」から徒歩約20分、太田市営バス(シティライナーおおた)「尾島ライン」で「世良田小学校前」下車徒歩約5分、北関東自動車道「伊勢崎IC」または「太田藪塚IC」から約20分
「東照宮といえば日光」というイメージが強いですが、実は群馬県太田市にも徳川家康公を祀る立派な東照宮があるのをご存知ですか?
今回は、徳川氏発祥の地と言われる歴史深い「世良田東照宮」をご紹介します!
■世良田東照宮
寛永21年(1644年)日光東照宮奥社から拝殿などが移築され創建されました。
現在、世良田東照宮では大規模な改修工事が行われ、前橋出身の宮大工・清水智行さんが現場監督としてご活躍なさっています。
綺麗に生まれ変わった姿が今から楽しみですね。

■豪華な社殿は日光からの移築!
境内に一歩足を踏み入れると、色鮮やかな彫刻が目を引きます。
実はこの本殿や唐門、拝殿は、3代将軍・家光公が日光東照宮を大改修した際に、それまで使われていた社殿をそのまま移築したもの。
つまり「元祖・日光東照宮」の姿を今に伝える、超貴重な重要文化財なんです!
そしてこれらを手掛けたのは、徳川家康から、
「関東の番匠は正清の弟子になるべき」「普請に関しては何事も正清次第」
と言われるほどに重用された、初代京都大工頭・中井正清です。
中井正清は、江戸城や二条城などを手掛けた江戸時代初期の大工頭で、徳川家の重要な建築を担った超有名な堂宮大工です。

周辺には歴史公園も整備されていて、春にはソメイヨシノが咲き誇る桜の名所としても知られています。
新田荘歴史資料館や新田家累代墓、徳川義季公累代墓などもあり、歴史好きの方はとても見ごたえのある神社です。

直書きで頂いた御朱印は味のある書体でした。
御朱印は境内右側にある社務所で頂けます。
歴史好きはもちろん、静かな環境でゆっくり参拝したい方にもぴったりのスポットです。
三ツ葉葵の紋が輝く御朱印もいただけるので、御朱印帳を持ってぜひ足を運んでみてくださいね!
2022.05.18参拝

「世良田東照宮」
所在地:群馬県太田市世良田町3119-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:東武伊勢崎線「世良田駅」から徒歩約20分、太田市営バス(シティライナーおおた)「尾島ライン」で「世良田小学校前」下車徒歩約5分、北関東自動車道「伊勢崎IC」または「太田藪塚IC」から約20分
「東照宮といえば日光」というイメージが強いですが、実は群馬県太田市にも徳川家康公を祀る立派な東照宮があるのをご存知ですか?
今回は、徳川氏発祥の地と言われる歴史深い「世良田東照宮」をご紹介します!
■世良田東照宮
寛永21年(1644年)日光東照宮奥社から拝殿などが移築され創建されました。
現在、世良田東照宮では大規模な改修工事が行われ、前橋出身の宮大工・清水智行さんが現場監督としてご活躍なさっています。
綺麗に生まれ変わった姿が今から楽しみですね。

■豪華な社殿は日光からの移築!
境内に一歩足を踏み入れると、色鮮やかな彫刻が目を引きます。
実はこの本殿や唐門、拝殿は、3代将軍・家光公が日光東照宮を大改修した際に、それまで使われていた社殿をそのまま移築したもの。
つまり「元祖・日光東照宮」の姿を今に伝える、超貴重な重要文化財なんです!
そしてこれらを手掛けたのは、徳川家康から、
「関東の番匠は正清の弟子になるべき」「普請に関しては何事も正清次第」
と言われるほどに重用された、初代京都大工頭・中井正清です。
中井正清は、江戸城や二条城などを手掛けた江戸時代初期の大工頭で、徳川家の重要な建築を担った超有名な堂宮大工です。

周辺には歴史公園も整備されていて、春にはソメイヨシノが咲き誇る桜の名所としても知られています。
新田荘歴史資料館や新田家累代墓、徳川義季公累代墓などもあり、歴史好きの方はとても見ごたえのある神社です。

直書きで頂いた御朱印は味のある書体でした。
御朱印は境内右側にある社務所で頂けます。
歴史好きはもちろん、静かな環境でゆっくり参拝したい方にもぴったりのスポットです。
三ツ葉葵の紋が輝く御朱印もいただけるので、御朱印帳を持ってぜひ足を運んでみてくださいね!
2022.08.07 03:06 | comment(0)
【大生郷天満宮】“菅原道真を祀る地”|関東以東最古の天満宮
大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)で御朱印を頂きました。
2022.05.29参拝

「大生郷天満宮」
所在地:茨城県常総市大生郷町1234番
駐車場:あり(無料)
アクセス:関東鉄道常総線「水海道駅」から車で約15分
茨城県常総市にある
「知る人ぞ知る」
最強の学問パワースポット、大生郷天満宮をご紹介します。
「天満宮といえば、京都の北野や福岡の太宰府でしょ?」
と思っているあなた、もったいない!
実はここ、関東以東で最も古い天満宮なんです。
💡関東以東(かんとういとう)とは?
箱根の関所や碓氷峠など、かつての関所から見て東側の地域を指す表現
大生郷天満宮は関東以東では最古の天満宮です。
よく「関東最古」「東日本最古」と間違われていますが、東日本最古の天満宮は延喜3年(道真公逝去年)に菅原道武により創建された「谷保天満宮」です。
■大生郷天満宮の歴史
大生郷天満宮の創建は延長7年(929年)とされていて、菅原道真の三男・景行が常陸介に任ぜられ、常陸国に赴任した時に建立し、携えていた道真公のご遺骨をお祀りしたと伝わります。

🐂参道の左側には「御神牛」という石像が建立されています。
■受験生の味方!「撫で牛」で知恵をいただく
天神様といえば、神の使いである「牛」ですよね。
参道にある「撫で牛」は、自分の体の悪いところと同じ場所を撫でると治るといわれています。
でも、多くの人が撫でまくっているのはやっぱり「頭」。
ツルツルに輝く牛の頭を撫でて、ちゃっかり知恵を授かってきました。
💡なぜ天満宮には牛がいる?
天満宮に行くと、必ずと言っていいほど見かける「牛の像」。
実はこれ、ただの飾りではなく――
👉 菅原道真公と深く結びついた“神の使い”です。
道真公は丑年生まれで、亡くなる際には
「牛の行く場所に自分を葬ってほしい」
という言葉を残したと伝えられています。
その後、牛車を引く牛がある場所で動かなくなり、そこが墓所となりました。
この出来事から、牛は道真公の象徴となり、今でも天満宮では大切に祀られています。

社殿右側にはさざれ石がありました。
国歌にも登場するさざれ石、漢字で書くと「細石」と書くそうで意味は「小さな石」だそうです。
日本国国歌は「古今和歌集巻七賀」に採録された藤原朝臣石位左衛門の一首に、明治13年(1880年)宮内省雅楽課が旋律を付け、ドイツ人音楽教師・フランツ・エッケルトによって西洋和声に編曲され現在の国歌となりました。
■まさかの「リアル御廟」がある神社
この神社のすごいところは、菅原道真公の第三子・景行(かげゆき)が、父の遺骨を奉じて建てたといわれている点です。
境内の奥には道真公の遺骨を祀る「御廟(ごびょう)」があり、ここが信仰の核心。
都から遠く離れたこの地に、道真公が静かに眠っていると思うと、背筋が伸びるような神聖な空気を感じます。

大生郷天満宮社殿
菅原道真公のご遺族自ら創建された事、道真公のご遺骨がお祀りされている事から
「日本三大天神」
に数えられていて、受験シーズンには各地からたくさんの参拝者が訪れて合格祈願をされています。
■まるで浮島?江戸時代からの「観光地」
実はこの神社、昔は周りを森と池に囲まれていて、まるで島のように見えたことから
「御廟天神」
とも呼ばれていました。
江戸時代には「江ノ島参り」などと並ぶ人気の観光スポットだったそうで、当時の賑わいを想像しながら歩くのも楽しいですよ。

御朱印は社殿右側にある社務所で頂く事が出来ます。
普段は直書きで対応して頂けるそうですが、管理人が参拝した時は書き手の方がご不在で、書置きの御朱印を拝受させて頂きました。
「大生郷天満宮」は、歴史の重みと静かなパワーを感じられる素敵な場所でした。
特に受験を控えている方や、落ち着いて自分と向き合いたい方には全力でおすすめします!
2022.05.29参拝

「大生郷天満宮」
所在地:茨城県常総市大生郷町1234番
駐車場:あり(無料)
アクセス:関東鉄道常総線「水海道駅」から車で約15分
茨城県常総市にある
「知る人ぞ知る」
最強の学問パワースポット、大生郷天満宮をご紹介します。
「天満宮といえば、京都の北野や福岡の太宰府でしょ?」
と思っているあなた、もったいない!
実はここ、関東以東で最も古い天満宮なんです。
💡関東以東(かんとういとう)とは?
箱根の関所や碓氷峠など、かつての関所から見て東側の地域を指す表現
大生郷天満宮は関東以東では最古の天満宮です。
よく「関東最古」「東日本最古」と間違われていますが、東日本最古の天満宮は延喜3年(道真公逝去年)に菅原道武により創建された「谷保天満宮」です。
■大生郷天満宮の歴史
大生郷天満宮の創建は延長7年(929年)とされていて、菅原道真の三男・景行が常陸介に任ぜられ、常陸国に赴任した時に建立し、携えていた道真公のご遺骨をお祀りしたと伝わります。

🐂参道の左側には「御神牛」という石像が建立されています。
■受験生の味方!「撫で牛」で知恵をいただく
天神様といえば、神の使いである「牛」ですよね。
参道にある「撫で牛」は、自分の体の悪いところと同じ場所を撫でると治るといわれています。
でも、多くの人が撫でまくっているのはやっぱり「頭」。
ツルツルに輝く牛の頭を撫でて、ちゃっかり知恵を授かってきました。
💡なぜ天満宮には牛がいる?
天満宮に行くと、必ずと言っていいほど見かける「牛の像」。
実はこれ、ただの飾りではなく――
👉 菅原道真公と深く結びついた“神の使い”です。
道真公は丑年生まれで、亡くなる際には
「牛の行く場所に自分を葬ってほしい」
という言葉を残したと伝えられています。
その後、牛車を引く牛がある場所で動かなくなり、そこが墓所となりました。
この出来事から、牛は道真公の象徴となり、今でも天満宮では大切に祀られています。

社殿右側にはさざれ石がありました。
国歌にも登場するさざれ石、漢字で書くと「細石」と書くそうで意味は「小さな石」だそうです。
日本国国歌は「古今和歌集巻七賀」に採録された藤原朝臣石位左衛門の一首に、明治13年(1880年)宮内省雅楽課が旋律を付け、ドイツ人音楽教師・フランツ・エッケルトによって西洋和声に編曲され現在の国歌となりました。
■まさかの「リアル御廟」がある神社
この神社のすごいところは、菅原道真公の第三子・景行(かげゆき)が、父の遺骨を奉じて建てたといわれている点です。
境内の奥には道真公の遺骨を祀る「御廟(ごびょう)」があり、ここが信仰の核心。
都から遠く離れたこの地に、道真公が静かに眠っていると思うと、背筋が伸びるような神聖な空気を感じます。

大生郷天満宮社殿
菅原道真公のご遺族自ら創建された事、道真公のご遺骨がお祀りされている事から
「日本三大天神」
に数えられていて、受験シーズンには各地からたくさんの参拝者が訪れて合格祈願をされています。
■まるで浮島?江戸時代からの「観光地」
実はこの神社、昔は周りを森と池に囲まれていて、まるで島のように見えたことから
「御廟天神」
とも呼ばれていました。
江戸時代には「江ノ島参り」などと並ぶ人気の観光スポットだったそうで、当時の賑わいを想像しながら歩くのも楽しいですよ。

御朱印は社殿右側にある社務所で頂く事が出来ます。
普段は直書きで対応して頂けるそうですが、管理人が参拝した時は書き手の方がご不在で、書置きの御朱印を拝受させて頂きました。
「大生郷天満宮」は、歴史の重みと静かなパワーを感じられる素敵な場所でした。
特に受験を控えている方や、落ち着いて自分と向き合いたい方には全力でおすすめします!
2022.08.05 02:59 | comment(0)
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