「八龍神社(はちりゅうじんじゃ)」の御朱印を直書きで拝受しました。
2022.07.07参拝

「八龍神社」
所在地:茨城県坂東市生子632
駐車場:なし
アクセス:茨城急行自動車のバス停「岩井車庫」から徒歩で約16分、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)「坂東IC」より約10分

茨城県坂東市に鎮座する八龍神社。

創建は平安時代にまでさかのぼると伝えられ、
坂東の地で起きた動乱や、人々の祈りとともに歩んできた歴史ある神社です。

雨を司る神を祀り、農耕と深く結びついてきたこの地には、
かつての領主や武士、そして農民たちの想いが静かに積み重なっています。

今回は、そんな八龍神社を訪れ、境内の様子や見どころ、
そしてその背景にある歴史についてご紹介していきます。


⛩️ 参道入口の鳥居
朱色に塗られた木造の両部鳥居。

その奥には、昭和17年(1942年)に地元の名士・片倉七郎翁によって奉納された石鳥居が建てられています。

時代の異なる二つの鳥居が並ぶ光景は、歴史の積み重なりを感じさせてくれます。


🏯 拝殿
平成11年(1999年)に再建された拝殿。
新しさの中にも、しっかりとした風格が感じられる社殿です。

📜 八龍神社の由緒
八龍神社の創建は、天慶年間(938年〜947年)と伝えられています。

この時代、坂東では平将門が起こした「承平天慶の乱」が勃発。
将門は関東一帯を掌握し、自らを「新皇」と称して朝廷と対立しました。

しかし天慶3年(940年)、討伐軍との戦いで流れ矢により討死。

将門は、荒地だった坂東の地で馬牧の経営や製鉄による農具開発を行い、農地開拓を進めた人物でもあり、農民からの信頼が厚かったとされています。

そのため、この地を治めた後の領主が、農民の支持を得るために
雨を司る神・高闇龗命を祀ったことが、神社の始まりだったのかもしれません。

🏯 江戸時代の保護

寛文2年(1662年)には、関宿藩主・板倉重郷により、
社領七反余歩が年貢免除の地として認められました。

さらに享保4年(1719年)には、神祇権大副・吉田兼敬より
「正一位八龍神」の扁額が寄進されています。

当時、吉田家は全国の神社を統括するほどの権威を持つ神道家であり、
その吉田家からの寄進というのは、非常に格式の高いものでした。


八龍神社の創建は天慶年間(938年~947年)と伝わります。
この頃、坂東に拠点を置いた平将門による承平天慶の乱が起こり、将門は関東全域を手中に収め新皇と自称して朝廷と対立しました。
天慶3年(940年)2月14日、将門は朝廷の派遣した追討軍との戦で流れ矢が額に刺さり討死してしまいました。
将門は荒地だった坂東の地を豊かにするため馬牧の経営と製鉄による農具の開発などを行って、農民たちと農地の開墾を進めたため農民からの信頼が篤かったとされています。
岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた将門のあとに当地を領した領主によって、農民の支持を集めるために雨を司る神「高闇龗命」を祀る神社が建立されたのかも知れません。
寛文2年(1662年)には下総関宿藩第2代藩主・板倉重郷より社領・七反余歩が年貢免除となる除地として認められました。
享保4年(1719年)神祇権大副・吉田兼敬より正一位八龍神の額面が寄進されたそうです。
吉田家は寛文5年(1665年)7月に江戸幕府が発布した「諸社禰宜神主法度」の中で「無位の社人、白張を着すべし。その他の装束は、吉田の許状をもつてこれを着すべき事。」と記されるほどの権威を持った神道家でした。
このため全国の神職は上京し、吉田家に神道裁許状を求めたため、諸社禰宜神主法度発布後は吉田家がほぼ全ての神社の神職を管理下に置きました。


拝殿の扁額
拝殿には、金色の文字で社号が刻まれた立派な扁額が掲げられています。
歴史の重みと格式を感じさせる、見どころのひとつです。



🏚️ 境内に残る古い社殿
広い境内には、ひときわ目を引く古い社殿が建っていました。

境内社なのか、それとも八龍神社の旧社殿なのかは不明ですが、
かなり朽ちた様子から、長い年月を経てきたことがうかがえます。

それでも、彩色された彫刻は非常に豪華で、かつての姿の美しさを感じさせてくれます。

このまま失われてしまうのは、どこか寂しさを覚えますね(*‘ω‘ *)


八龍神社の御朱印は沓掛香取神社で頂く事が出来ます。

八龍神社は、華やかな観光地ではありませんが、
長い歴史の中で人々の暮らしと深く結びついてきた、静かで味わいのある神社でした。

境内に残る古い社殿や彫刻からは、
かつての信仰の厚さや、この地で大切にされてきた歴史が伝わってきます。

こうした場所を実際に歩いてみると、
書物だけでは感じられない“土地の記憶”に触れられるのが魅力ですね。

派手さはなくとも、じっくりと歴史を感じたい方には、ぜひ訪れてほしい神社です。
2022.07.11 23:57 | comment(0)

「沓掛香取神社(くつかけかとりじんじゃ)」で直書きの七夕限定御朱印と天満宮・聖徳社の御朱印を拝受しました。
2022.07.07参拝



「沓掛香取神社」
所在地:茨城県坂東市沓掛4120-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:圏央道坂東IC から約5分、「沓掛」または「沓掛南前」バス停から徒歩すぐ

茨城県坂東市。のどかな田園風景の中に、SNSで「神対応すぎる」と話題の神社があります。
それが今回訪れた沓掛香取神社。
一見、歴史を感じる静かな「村の鎮守さま」なのですが、一歩足を踏み入れると、そのギャップに驚かされます。


⛩️ 参道入口の石鳥居
昭和43年(1968年)に建立された石鳥居。
その手前には、大きな石灯籠が奉納されており、参道の入口からしっかりとした風格を感じます。


🌿 二の鳥居と境内へ
境内入口には、昭和47年(1972年)建立の木造・両部鳥居が建っています。
石鳥居から続く参道を進むと、徐々に神域へと入っていく感覚が心地よいです。


ご神木の大ケヤキ

⭐写真映えする「黄色い絨毯」
秋に訪れるなら、参道の銀杏(いちょう)は必見です。
境内にはケヤキやイチョウなどの大木が茂り、紅葉シーズンには
地面が真っ黄色に染まる光景は、まさに天然のイエローカーペット。
その美しすぎる光景に、カメラ女子がこぞって訪れるそうです。


「天満宮・聖徳社」
境内に入って左手には「天満宮・聖徳社」が並んで鎮座しています。
天満宮には菅原道真さん、聖徳社には聖徳太子さん(厩戸豊聡耳命)が
お祀りされています。


🐄 天満宮と神牛
その脇には、道真さんゆかりの「神牛」の像もありました。
撫でるとご利益がありそうな、どこか親しみを感じる存在です。


🏯 拝殿
昭和28年(1953年)に造営された拝殿。
落ち着いた佇まいで、地域に根付いた神社らしい雰囲気が感じられます。

✨伝説のヒーロー・平将門公の影
実はここ、あの平将門公にゆかりがあるといわれています。
境内にそびえる巨木や、精巧な彫刻が施された本殿(県指定文化財!)を見上げていると、1000年以上前の武士たちが駆け抜けた時代にタイムスリップしたような感覚に。

📜 沓掛香取神社の由緒
創建時期は不明ですが、伝承によると
経津主神の傍系にあたる美計奴都加佐命によって創祀されたと伝えられています。

また、大同2年(807年)・弘仁元年(810年)には
弘法大師空海が訪れ、十一面観音を勧請したという伝承も残されています。

ただし、この時期の空海は九州に滞在していたとされており、
実際に訪れた可能性は低いとも考えられています。

👉こうした「伝承と史実のズレ」を考えるのも面白いですね。

🏯 中世から江戸時代へ

正長元年(1428年)には、結城氏の当主・結城氏朝によって社殿が修築され、
刀剣が奉納されました。

さらに江戸時代、享保の改革の一環として行われた飯沼の新田開発では、
その成功を祈願した結果、無事に事業が成功。

その御礼として本殿が寄進されたと伝えられています。

現在、本殿は覆屋により保護されており、直接見ることはできませんが、
平成4年(1992年)の修繕により美しい姿が保たれているそうです。

🌿「実家のような安心感」のおもてなし
参拝者から絶賛されているのが、宮司さんご一家の温かさ。
「御朱印を待っている間にどうぞ」
と冷たい麦茶や飴を出してくださったり、気さくに神社の歴史を教えてくれたり……。

大きな神社では味わえない

「人の温もり」

に、心までお清めされるファンが続出しています。



御朱印は、拝殿の右側を進んだ先にある宮司さんのお宅でいただけます。

こちらの神社は御朱印の種類が豊富で、多くの参拝者が御朱印を求めて訪れていました。
管理人は「七夕限定御朱印」と「天満宮・聖徳社」の御朱印を頂きました。


🎋 七夕限定御朱印
直書きでいただいた七夕限定御朱印。
笹のデザインがとても美しく、季節感あふれる一枚でした(^^♪

「最近、心がトゲトゲしてるな…」という方。
圏央道・坂東ICからたったの5分です。宮司さんの優しい笑顔と、将門公のパワー、そして美しい御朱印に癒やされに行ってみませんか?
2022.07.09 23:49 | comment(0)

「東蕗田天満社(ひがしふきたてんまんしゃ)」で直書きの七夕限定見開き御朱印を拝受しました。
2022.07.07参拝

「東蕗田天満社」
所在地:茨城県結城郡八千代町東蕗田242
駐車場:あり(無料)
アクセス:圏央道 坂東ICまたは常総ICより車で約30分、関東鉄道常総線「宗道駅」または「下妻駅」からタクシー

茨城県にある東蕗田天満社は、学問の神様・菅原道真公を祀る歴史ある神社です。

境内には縁結びの象徴とされる夫婦杉や、季節を感じられる装飾など見どころが多く、
落ち着いた雰囲気の中でゆっくりと参拝を楽しむことができます。

さらに近年は、デザイン性の高い御朱印が話題となり、
御朱印巡りを楽しむ方々からも注目を集めている神社でもあります。

今回は、そんな東蕗田天満社を訪れ、
境内の様子や歴史、そして七夕限定御朱印の魅力をご紹介していきます。


「裏参道入口の石鳥居」
裏参道入口となる石鳥居、境内まで約200mの桜並木が続きます。
春には見事な桜のトンネルが形成され、オリジナル御朱印帳のデザインにも採用されています。


「裏参道の鳥居と桜並木」
桜並木が続く参道は、春には多くの参拝者が訪れる県下屈指の桜の名所として有名です。
朱塗りの鳥居は木造で、管理人が訪問した際には根元が朽ちていました。
早めに修理した方がいいかも・・・(;^_^A


「夫婦杉」
境内には夫婦杉と呼ばれる大きな杉の木が立っています。
この杉の木は根元が繋がっていて、

「縁結び・夫婦和合の象徴」

となっています。


🎋 拝殿と七夕の風景
拝殿の脇には、七夕の時期ということもあり、
色とりどりの飾りがつけられた笹が立てられていました。

季節の行事と神社の空気が合わさって、
どこか優しく、穏やかな雰囲気が漂っています。

📜 東蕗田天満社の由緒
創建は正応元年(1288年)2月18日。
京都の北野天満宮から御霊を分祀して創建されたと伝えられています。

主祭神は、学問の神様として知られる菅原道真公。
受験シーズンには多くの参拝者で賑わうそうです。

また、古くから武家の崇敬も厚く、
古河公方・足利家から刀剣が奉納された記録や、

戦国時代には下妻城主・多賀谷重経から太刀が奉納されるなど、
歴史の中で重要な役割を担ってきた神社であることがわかります。

さらに慶長9年(1605年)には、伊奈忠次より墨印地が与えられるなど、
江戸時代にも厚く保護されていました。


🏯多賀谷氏館跡(埼玉県加須市 大福寺 2010.07.21旦那撮影)
平安時代末期から鎌倉時代に道智頼基の子・光基を祖とする多賀谷氏が築いた居館です。

多賀谷氏は武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷の地頭として武蔵七党野与党に属し、源頼朝上洛の髄兵や御弓始の射手として活躍しました。

宝徳3年(1451年)享徳の乱で多賀谷氏家は、第5代鎌倉公方(初代古河公方)足利成氏の命令により、関東管領・上杉憲忠の鎌倉西御門館を襲撃して憲忠を討取る武功を挙げ、成氏より常陸国下妻三十三郷を与えられました。

氏家は、康正元年(1455年)から下妻城の築城を開始し、寛正2年(1461年)に完成すると常陸国に移り住んだため、当地の館は廃され、以降、下妻城が多賀谷氏代々の居城となりました。

👉多賀谷重経
永禄元年(1558年)結城氏の傘下あった多賀谷政経の子として誕生し、天正4年(1576年)父の死により家督を継ぎました。

結城四天王の筆頭として名を馳せましたが結城氏から独立を図り、上杉謙信や佐竹義重と結んで小田氏・岡見氏を攻撃、牛久地方への進出を果たし、所領は20万石にもなりました。
この頃には軍事力も、佐竹氏と匹敵する1000挺の鉄砲隊を配備するほど増強されていたそうです。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参戦し、北条氏方の天神城を攻略するなど活躍、所領を安堵されましたが、秀吉の命令で再び結城氏の家臣に組み込まれたため、秀吉に強い不満を抱くようになったそうです。

その後、主家・結城氏の跡継に徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀康が入嗣すると、不満が募った重経は結城氏に従う嫡男・三経を追放し、佐竹義重の四男・宣家を養子として迎え、多賀谷氏の家督を譲りました。

文禄元年(1592年)文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮派兵)には病気を理由に参陣せず、秀吉の怒りを買い、所領の一部を没収されてしまいた。

1600年(慶長5年)9月、関ヶ原の戦いでは、徳川家康の再三の出陣要請にも応じる事はありませんでした。
それどころか、西軍の上杉景勝に与し、家康の小山本陣への夜襲の計略が露見したため、翌年2月に改易処分となりました。

家督を譲った宣家は、実家の佐竹氏に戻ると岩城氏を相続して出羽国亀田藩主となり、重経の家臣も重経を見限って宣家の家臣となったため、重経は親族を頼りながら各地を流浪した末、元和4年(1618年)11月9日に病没しました。


🏯伊奈氏屋敷跡(埼玉県伊奈町 2012.07.09旦那撮影)
天正18年(1590年)徳川家康の関東入封後、武蔵国足立郡小室及び鴻巣に1万石を与えられ、関東代官頭として家康の関東支配に貢献した伊奈忠次により築かれました。

2代忠政の嫡子・忠勝が早世したため、忠政の弟である忠治が寛永6年(1629年)に関東郡代の名跡を継承し、武蔵国赤山に屋敷を移すと、当地の屋敷は廃されました。

👉伊奈忠次
天文19年(1550年)三河国幡豆郡小島城主・伊奈忠家の嫡男として生まれました。

永禄6年(1563年)父・忠家が三河一向一揆に加わり松平家康(徳川家康)の下を出奔しましたが、天正3年(1575年)長篠の戦いに陣借りをして参陣し戦功を立て、父とともに家康嫡男・信康の家臣として徳川家に帰参しました。

天正7年(1579年)9月15日、信康が家康の命令で切腹させられると再び出奔し、和泉国・堺に居住しました。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれ、堺を遊覧中だった徳川家康にも明智軍の追手が迫る中、堺で隠棲していた忠次は、家康を三河岡崎城に脱出させる「伊賀越え」に協力、徳川家への帰参が許され、伊奈氏旧領の小島を与えられました。

忠次は三遠奉行の一人だった代官・小栗吉忠の同心として活躍し、吉忠の跡を任され代官衆筆頭となり、豊臣秀吉の小田原征伐や、文禄・慶長の役で兵糧の輸送や街路整備などを一手に担い、代官としての地位を盤石にしました。

徳川家康の関東入封後は、武蔵国足立郡小室・鴻巣に1万石を与えられ、関東代官頭に任命されました。

忠次は関東各地で検地、新田開発、河川改修、知行割、寺社政策などを行い、江戸幕府の財政基盤の確立に貢献、江戸でも治水を行い運河を整備して諸国からの水運を容易にすると、領民の暮らしを豊かにするために桑、麻、楮などの栽培方法を広め、農民には炭焼き、養蚕、製塩などを奨励、江戸繁栄の礎を築きました。

ちなみに、埼玉県伊奈町は忠次、茨城県つくばみらい市伊奈地区は次男・忠治が町名の由来となっていて、親子二代で後世に名を残すほど、江戸幕府での伊奈氏の業績は多大なものだったという事ですね。


⛩️ 境内社
境内には八幡神社や東照宮をはじめ、
大日神社や三峯神社など、多くの境内社が鎮座しています。

一つひとつ巡っていくのも楽しいポイントです。


🖋️ 御朱印がすごい!
👉 御朱印のレパートリーが本気すぎる…!

東蕗田天満社といえば、やはり御朱印。

和歌を取り入れた見開き御朱印などが有名で、
そのデザイン性の高さから、たびたびメディアにも取り上げられています。

可愛いものから美しいものまで種類が豊富で、
どれをいただくか本当に悩んでしまいます…(;・∀・)

🎋 七夕限定御朱印
迷っていたところ、宮司さんおすすめで
「七夕限定の見開き御朱印」を直書きで拝受しました。

初穂料は800円と、直書きとしてはかなり良心的。

紫を基調としたデザインもとても美しく、
大満足の一枚となりました(^^♪



「七夕限定見開き御朱印」
紫を基調とした可愛いデザインの御朱印に大満足です。

東蕗田天満社は、学問の神様を祀る神社としての魅力はもちろん、
武家との関わりや地域の歴史が色濃く残る、見どころの多い神社でした。

夫婦杉や季節の飾り、そして豊富な御朱印など、
訪れる楽しみも多く、何度でも足を運びたくなる場所です。

歴史好きの方にも、御朱印巡りを楽しんでいる方にも、
ぜひおすすめしたい神社でした。
2022.07.08 23:38 | comment(0)
+-Profile-+
プロフ

関東を中心に御朱印巡りをしている夫婦です。
実際に参拝した神社やお寺の御朱印、アクセス、混雑状況をリアルに紹介しています。

insta
+-記事検索-+
+-お知らせ-+
リニューアル完了しました。
+-最新記事-+
+-最近のコメント-+
+-カテゴリー-+