【眞田神社】真田昌幸の知略が光る上田城跡と、季節限定御朱印を巡る旅
家康が恐れた武将「表裏比興の者・真田昌幸」が築いた上田城址に鎮座する「眞田神社」で、直書きの季節限定見開き「夏越祓御朱印」「月替わり御朱印」と、書置きの枚数限定「疫病終息祈願御朱印」を頂きました。
2022.06.09参拝


「眞田神社」
所在地:長野県上田市二の丸1-12
駐車場:あり(無料)※一部有料化の動きあり
アクセス:上田駅から徒歩約15分
戦国時代、徳川家康を二度も退けた名城として知られる上田城。
その築城主・真田昌幸は、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評されたほどの智将でした。
そんな歴史の舞台となった上田城跡を訪れ、今回は眞田神社の御朱印を目的にゆっくりと巡ってきました。
これまで城跡の見学が中心だった訪問とは違い、境内の空気や歴史の重なりを感じながらの参拝は、またひと味違う魅力があります。
季節限定の御朱印や月替わりの御朱印、さらには枚数限定の特別な御朱印まで拝受することができ、歴史好き・御朱印好きの私には、たまらないひとときとなりました。
戦国の知略が息づく地でいただく御朱印には、どこか特別な重みが感じられます。
ご利益: 「落ちない・負けない」ことから、受験生や試合前の参拝者が多く訪れます。
勝負運、知恵の神様、開運、学業成就などのご利益があるとされています。

眞田神社には3度目となる訪問です。
1,2回目は旦那の上田城の見学が目的でしたが、今回初めて眞田神社の参詣と御朱印拝受を目的として伺いました。
■眞田神社の歴史
眞田神社は明治12年(1879年)旧上田藩士や旧領内有志によって藤井松平氏初代の忠山公、二代・忠昭公、そして藤井松平氏の初代上田藩主・三代・忠周公のご霊璽をお祀りする神社として創建されました。
創建当初は「松平神社」と称していましたが、、昭和28年(1953年)に上田城の築城者である真田氏と、真田氏のあとに上田藩主となった仙谷氏、そしてそののち幕末まで藩主を務めた藤井松平氏の歴代城主が合祀され「上田神社」と改称しました。
しかし、市内には同名他社が存在し紛らわしいとの事から、昭和38年(1963年)に上田城初代城主で築城者でもある真田昌幸公の名を冠して「眞田神社」と改称し現在に至ります。

眞田神社拝殿
拝殿前には六文銭がデザインされた写真撮影用のパネルが設置されていました。
お賽銭箱の上の赤い六文銭に手をかざすと、鈴の音が聞こえてきます。

境内には「青年 真田幸村公の像」が建てられていました。
実は、真田幸村は上田城で過ごした期間はとっても短かったんです。
第一次上田合戦の際には、越後・上杉景勝の元へ人質として赴ていて参陣していませんでしたし、その後、豊臣家臣となった真田昌幸は、幸村を人質として大阪へ送っていたので、幸村の上田入城は慶長5年(1600年)、徳川家康の会津・上杉氏討伐の時、徳川方から離反して上田城に入ったのが初めてだったとも考えられます。
更に、歴史好きの方には周知の事実ですが、真田幸村が生前、幸村と名乗った事はなく、江戸時代に書かれた軍記物に初めて幸村と表記され、幸の字が真田氏のルーツであった海野氏の通字だった事と、村の字が、なにかと因縁のあった徳川家に伝わる妖刀伝説の「村正」を連想させ、庶民の間で広く定着していったそうです。
幸村という名前が幅広く定着してしまったため、真田氏の正式な記録にまで幸村が使われるようになったんだそうですよ。
幸村の本名は真田信繁で、昌幸は、仕えていた武田信玄の実弟・信繁のように、兄・信幸を裏切る事なく支えるよう願って付けた名前なのかも知れませんね。

季節限定見開き「夏越祓御朱印」
直書きで初穂料は500円と、とっても良心的です。
月替わりの御朱印も直書きで初穂料300円なのに、めちゃめちゃクオリティーが高くて、遠方の方は郵送で拝受されても絶対に満足できると思います。

二ノ丸跡の上田城跡公園にあった真田幸村公の山車、お祭りで曳かれるものなのでしょうか?

「上田城 南櫓と東虎口櫓門」
二度も徳川の大軍を退けた上田城、築城者の真田昌幸は豊臣秀吉から
「表裏比興の者」
と評されるほどの智将だったそうです。
昌幸のお父さんの幸隆も知略に優れた武将で、武田信玄が大敗した砥石城を、調略によってわずか1日で攻略した凄い武将だったそうです。
💡「表裏比興の者」とは?
「老獪な策略家」「食わせ者」という意味の言葉で、小大名ながら周囲の大国を翻弄して生き抜いた、狡猾さと才覚を称えた言葉です。
+---徹底解説、上田合戦---+
徳川の大軍を2度も退けた真田昌幸、上田城を舞台に繰り広げられた上田合戦を小説仕立てで紹介します。
---第一次上田合戦---
天正10年(1582年)6月――
本能寺の変。
織田信長、横死。
天下の均衡は、一夜にして崩れ去った。
同年2月、信長によって滅ぼされた武田家。
その旧領――甲斐・信濃・上野は、統治者を失い“空白地帯”となる。
織田の支配は崩壊し、家臣たちは次々と撤退。
その隙を狙い、三人の大名が動き出す。
越後の上杉景勝。
相模の北条氏直。
そして三河の徳川家康。
武田の遺領を巡る争奪戦――
「天正壬午の乱」が幕を開けた。
その渦中にいたのが、真田昌幸である。
当初、昌幸は北条方に属していた。
だが、情勢を見極めると――
「勝つ側につく」
迷いなく、徳川家康へと寝返る。
そして、西上野を巡り、かつての主・北条と刃を交えた。
しかし、戦国は理では動かない。
天正10年(1582年)10月。
北条と徳川が突如、和議を結ぶ。
その条件は――
上野沼田は北条領。
信濃佐久は徳川領。
すなわち、真田の領地は「勝手に」切り分けられたのだった。
「ふざけるな……」
昌幸は、静かに牙を剥く。
天正11年(1583年)。
昌幸は、新たな拠点の構築に着手する。
信濃・上田。
ここに築かれるのが、後に名城と謳われる――上田城である。
そして天正13年(1585年)。
ついに決断の時が来る。
徳川家康からの命令――
「沼田を明け渡せ」
これを、昌幸は拒否した。
さらに一手。
次男・信繁(後の幸村)を人質として上杉景勝へ差し出し、
上杉に臣従。
徳川からの離反を、明確に示した。
その瞬間――
真田は、すべてを敵に回した。
築城中の上田城にも、変化が現れる。
当初、北の上杉に備えて設けられるはずだった大手門。
それは東へと変更される。
敵は――徳川。
そう、定まったのだ。
同年7月。
遠江・浜松。
家康のもとに報せが届く。
「真田昌幸、謀反」
――激怒。
ただちに討伐命令が下された。
8月。
鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが率いる、七千の大軍。
上田盆地へ侵攻。
対する真田軍――わずか一千二百。
圧倒的兵力差。
だが、昌幸は動じない。
本城・上田城に籠る昌幸。
砥石城には嫡男・信幸。
矢沢城には一族・矢沢頼康。
さらに上杉の援軍。
三点を結ぶ、防衛線が完成する。
すべては――計算の内。
戦いは始まった。
徳川軍は猛攻を仕掛け、ついに二ノ丸へ侵入。
だが、それすら昌幸の“策”だった。
地形を知り尽くした防衛。
誘い込み、崩す。
徳川軍は、徐々に追い詰められていく。
やがて、退却。
だが――逃がさない。
昌幸、追撃開始。
さらに、砥石城より信幸隊が出撃。
側面から襲いかかる。
そして矢沢頼康も参戦。
三方からの挟撃。
徳川軍は崩壊した。
逃げる先は、神川。
だがそれは――死地。
押し込まれた兵は次々と川へ落ち、
溺死。
戦場は、一方的な殲滅戦へと変わった。
真田軍の損害――わずか40。
対して徳川軍は1300の兵を失う大敗。
これが――
第一次上田合戦。
家康は知る。
この男の危険さを。
知略、胆力、そして裏切りすら武器にする男――真田昌幸。
後年。
家康は一つの策を講じる。
重臣・本多忠勝の娘、小松姫を
昌幸の嫡男・信幸に嫁がせる。
敵ではなく――取り込むために。
それほどまでに、
真田昌幸という存在は、
“無視できぬ男”だったのである。
---第二次上田合戦---
慶長5年(1600年)6月――
天下は再び、乱れる。
豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は、
会津の上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、討伐を決断した。
「謀反の兆しあり」
その一言で、大軍が東へと動き出す。
この時、真田昌幸もまた、家康の陣にあった。
嫡男・信幸は、本多忠勝の娘婿。
次男・信繁もまた、父とともに従軍していた。
真田は、徳川の一員――
誰もがそう思っていた。
だが、その背後で動く影があった。
石田三成。
家康不在の隙を突き、挙兵。
毛利輝元を総大将に据え、
「徳川家康弾劾状」を諸大名へ送りつける。
天下を二分する戦い――
関ヶ原の火種が、ここに灯った。
下野・犬伏。
ここで、運命が分かれる。
三成の書状を受け取った昌幸は、決断する。
嫡男・信幸を東軍に残し――
次男・信繁とともに、西軍へ。
父と弟は西へ。
兄は東へ。
真田一族、分裂。
それは、生き残るための策だった。
昌幸は、ただちに上田へ引き返す。
再び、あの城が舞台となる。
家康は動く。
息子・徳川秀忠に、3万8千の大軍を与えた。
本多正信、榊原康政、大久保忠隣――
歴戦の猛将を従え、中山道制圧を命じる。
目的はただ一つ。
――西軍との決戦へ、間に合うこと。
9月2日。
秀忠軍、信濃・小諸城へ入る。
対する昌幸――兵わずか2千。
圧倒的戦力差。
だが、昌幸は動じない。
翌3日。
昌幸は、意外な手を打つ。
「城を明け渡そう」
信幸を通じ、降伏と助命を申し入れた。
初陣の秀忠は、これを受け入れる。
「恐れたか」
そう、侮った。
だが――
翌日。
昌幸の態度は、一変する。
挑発。
あからさまな裏切り。
「なめるな……!」
秀忠、激怒。
上田城攻略を決断する。
9月5日。
秀忠は、砥石城攻めを命じる。
守るは、信繁。
だが――
信繁は戦わずして撤退。
上田城へ。
すべては、誘い。
6日。
上田城、完全包囲。
秀忠は、兵糧を断つべく稲の刈り取りを命じる。
これに対し、真田勢が迎撃。
小競り合いが続く。
時間だけが、過ぎていく。
その時。
軍監・榊原康政が進言する。
「上田城は捨てよ。
関ヶ原へ急ぐべし」
正論だった。
だが――
秀忠は、耳を貸さない。
昌幸への怒りが、判断を狂わせていた。
そして9月8日。
家康からの書状が届く。
「9日までに美濃赤坂へ着陣せよ」
その瞬間、秀忠は悟る。
――はめられた。
昌幸の狙いは、最初からこれだった。
足止め。
ただ、それだけのために。
上田城攻略、断念。
全軍、撤退。
関ヶ原へ、急行。
だが、間に合わない。
中山道は狭く大軍の移動は困難、
さらに大雨で川は氾濫。
進めど進めど、進めない。
そして――
9月15日。
関ヶ原、開戦。
だがそこに、秀忠軍の姿はなかった。
家康、激怒。
徳川家の嫡男は、天下分け目の決戦に間に合わなかった。
すべては――
真田昌幸、ただ一人に翻弄された結果だった。
戦後。
東軍の勝利。
秀忠を苦しめた昌幸と信繁は敗者となる。
紀伊・九度山へ配流。
天下に名を轟かせた策士は、表舞台から姿を消した。
一方、東軍に残った信幸は生き残る。
名を信之と改め、上田の地を与えられる。
真田は、途絶えなかった。
だが――
家康は忘れない。
二度にわたり、煮え湯を飲まされた城。
上田城。
それは、徹底的に破壊された。
もはや城ではない。
“消された”のだ。
その後、時代は移る。
真田は松代へ。
上田には仙石、そして松平。
城は再建されるも、かつての姿には戻らない。
だが、記憶は残る。
わずか二千で三万八千を翻弄した男。
天下を遅らせた城。
上田。
それは――
真田昌幸という「異才」が刻んだ、戦国最後の罠であった。

眞田神社の境内に残る「真田井戸」
この井戸、実は抜け穴となっていて、城北にある砦につながっているそうです。
籠城の時には兵糧米を運んだり、城兵の出入にも困らなかったそうです。
さすがは真田昌幸、抜け目がないですね( ´艸`)
+-眞田神社拝殿の移り変わり-+

眞田神社 拝殿(2009.5.4旦那撮影)
この頃はまだ屋根の千鳥破風などがないシンプルな拝殿でした。
御朱印集めが流行る前だったので、参拝される方は戦国ファンやお年寄りが多かったです。

眞田神社 拝殿(2011.7.1旦那撮影)
浜縁や屋根には千鳥破風が造られるなど、拝殿は綺麗に改修されていました。

眞田神社 拝殿(2022.6.9撮影)
前回訪問時から11年経って、千鳥破風や浜縁の真新しかった白木も、だいぶ黒くなって渋みが出てました。
境内には真田信繁公の銅像や伊勢神宮内宮遙拝所が設けられ、社務所前には「御朱印」の幟旗が立ち、多くの参拝者がいらっしゃいました。
お賽銭箱も大きくなり、社務所も御朱印専用窓口ができてお守りなどの種類もかなり豊富になっていました。
御朱印やお守りの郵送頒布にも対応してますのでご希望の方は、眞田神社公式HPをチェックしてみて下さい。

二の丸橋を出て目の前にある上田市観光会館の1階には真田幸村公の騎馬武者像が展示してありました。
こちらではお土産などを買うことができますので、ぜひお立ち寄りください!
上田城跡は、ただの史跡ではなく、真田昌幸の知略や覚悟が今も静かに息づく場所でした。
城の構えや地形、そして伝わる戦いの記録を辿ることで、当時の緊張感や駆け引きがよりリアルに感じられます。
そして、そんな歴史の舞台でいただく御朱印は、単なる記念ではなく、その土地の物語を持ち帰るような特別な一枚。
季節ごとに変わる意匠や直書きの温かみも、大きな魅力のひとつです。
歴史が好きな方はもちろん、御朱印巡りを楽しんでいる方にもぜひ訪れてほしい場所。
次に訪れるときは、また違う季節の御朱印とともに、さらに深くこの地の魅力を感じてみたいと思います。
2022.06.09参拝


「眞田神社」
所在地:長野県上田市二の丸1-12
駐車場:あり(無料)※一部有料化の動きあり
アクセス:上田駅から徒歩約15分
戦国時代、徳川家康を二度も退けた名城として知られる上田城。
その築城主・真田昌幸は、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評されたほどの智将でした。
そんな歴史の舞台となった上田城跡を訪れ、今回は眞田神社の御朱印を目的にゆっくりと巡ってきました。
これまで城跡の見学が中心だった訪問とは違い、境内の空気や歴史の重なりを感じながらの参拝は、またひと味違う魅力があります。
季節限定の御朱印や月替わりの御朱印、さらには枚数限定の特別な御朱印まで拝受することができ、歴史好き・御朱印好きの私には、たまらないひとときとなりました。
戦国の知略が息づく地でいただく御朱印には、どこか特別な重みが感じられます。
ご利益: 「落ちない・負けない」ことから、受験生や試合前の参拝者が多く訪れます。
勝負運、知恵の神様、開運、学業成就などのご利益があるとされています。

眞田神社には3度目となる訪問です。
1,2回目は旦那の上田城の見学が目的でしたが、今回初めて眞田神社の参詣と御朱印拝受を目的として伺いました。
■眞田神社の歴史
眞田神社は明治12年(1879年)旧上田藩士や旧領内有志によって藤井松平氏初代の忠山公、二代・忠昭公、そして藤井松平氏の初代上田藩主・三代・忠周公のご霊璽をお祀りする神社として創建されました。
創建当初は「松平神社」と称していましたが、、昭和28年(1953年)に上田城の築城者である真田氏と、真田氏のあとに上田藩主となった仙谷氏、そしてそののち幕末まで藩主を務めた藤井松平氏の歴代城主が合祀され「上田神社」と改称しました。
しかし、市内には同名他社が存在し紛らわしいとの事から、昭和38年(1963年)に上田城初代城主で築城者でもある真田昌幸公の名を冠して「眞田神社」と改称し現在に至ります。

眞田神社拝殿
拝殿前には六文銭がデザインされた写真撮影用のパネルが設置されていました。
お賽銭箱の上の赤い六文銭に手をかざすと、鈴の音が聞こえてきます。

境内には「青年 真田幸村公の像」が建てられていました。
実は、真田幸村は上田城で過ごした期間はとっても短かったんです。
第一次上田合戦の際には、越後・上杉景勝の元へ人質として赴ていて参陣していませんでしたし、その後、豊臣家臣となった真田昌幸は、幸村を人質として大阪へ送っていたので、幸村の上田入城は慶長5年(1600年)、徳川家康の会津・上杉氏討伐の時、徳川方から離反して上田城に入ったのが初めてだったとも考えられます。
更に、歴史好きの方には周知の事実ですが、真田幸村が生前、幸村と名乗った事はなく、江戸時代に書かれた軍記物に初めて幸村と表記され、幸の字が真田氏のルーツであった海野氏の通字だった事と、村の字が、なにかと因縁のあった徳川家に伝わる妖刀伝説の「村正」を連想させ、庶民の間で広く定着していったそうです。
幸村という名前が幅広く定着してしまったため、真田氏の正式な記録にまで幸村が使われるようになったんだそうですよ。
幸村の本名は真田信繁で、昌幸は、仕えていた武田信玄の実弟・信繁のように、兄・信幸を裏切る事なく支えるよう願って付けた名前なのかも知れませんね。

季節限定見開き「夏越祓御朱印」
直書きで初穂料は500円と、とっても良心的です。
月替わりの御朱印も直書きで初穂料300円なのに、めちゃめちゃクオリティーが高くて、遠方の方は郵送で拝受されても絶対に満足できると思います。

二ノ丸跡の上田城跡公園にあった真田幸村公の山車、お祭りで曳かれるものなのでしょうか?

「上田城 南櫓と東虎口櫓門」
二度も徳川の大軍を退けた上田城、築城者の真田昌幸は豊臣秀吉から
「表裏比興の者」
と評されるほどの智将だったそうです。
昌幸のお父さんの幸隆も知略に優れた武将で、武田信玄が大敗した砥石城を、調略によってわずか1日で攻略した凄い武将だったそうです。
💡「表裏比興の者」とは?
「老獪な策略家」「食わせ者」という意味の言葉で、小大名ながら周囲の大国を翻弄して生き抜いた、狡猾さと才覚を称えた言葉です。
+---徹底解説、上田合戦---+
徳川の大軍を2度も退けた真田昌幸、上田城を舞台に繰り広げられた上田合戦を小説仕立てで紹介します。
---第一次上田合戦---
天正10年(1582年)6月――
本能寺の変。
織田信長、横死。
天下の均衡は、一夜にして崩れ去った。
同年2月、信長によって滅ぼされた武田家。
その旧領――甲斐・信濃・上野は、統治者を失い“空白地帯”となる。
織田の支配は崩壊し、家臣たちは次々と撤退。
その隙を狙い、三人の大名が動き出す。
越後の上杉景勝。
相模の北条氏直。
そして三河の徳川家康。
武田の遺領を巡る争奪戦――
「天正壬午の乱」が幕を開けた。
その渦中にいたのが、真田昌幸である。
当初、昌幸は北条方に属していた。
だが、情勢を見極めると――
「勝つ側につく」
迷いなく、徳川家康へと寝返る。
そして、西上野を巡り、かつての主・北条と刃を交えた。
しかし、戦国は理では動かない。
天正10年(1582年)10月。
北条と徳川が突如、和議を結ぶ。
その条件は――
上野沼田は北条領。
信濃佐久は徳川領。
すなわち、真田の領地は「勝手に」切り分けられたのだった。
「ふざけるな……」
昌幸は、静かに牙を剥く。
天正11年(1583年)。
昌幸は、新たな拠点の構築に着手する。
信濃・上田。
ここに築かれるのが、後に名城と謳われる――上田城である。
そして天正13年(1585年)。
ついに決断の時が来る。
徳川家康からの命令――
「沼田を明け渡せ」
これを、昌幸は拒否した。
さらに一手。
次男・信繁(後の幸村)を人質として上杉景勝へ差し出し、
上杉に臣従。
徳川からの離反を、明確に示した。
その瞬間――
真田は、すべてを敵に回した。
築城中の上田城にも、変化が現れる。
当初、北の上杉に備えて設けられるはずだった大手門。
それは東へと変更される。
敵は――徳川。
そう、定まったのだ。
同年7月。
遠江・浜松。
家康のもとに報せが届く。
「真田昌幸、謀反」
――激怒。
ただちに討伐命令が下された。
8月。
鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが率いる、七千の大軍。
上田盆地へ侵攻。
対する真田軍――わずか一千二百。
圧倒的兵力差。
だが、昌幸は動じない。
本城・上田城に籠る昌幸。
砥石城には嫡男・信幸。
矢沢城には一族・矢沢頼康。
さらに上杉の援軍。
三点を結ぶ、防衛線が完成する。
すべては――計算の内。
戦いは始まった。
徳川軍は猛攻を仕掛け、ついに二ノ丸へ侵入。
だが、それすら昌幸の“策”だった。
地形を知り尽くした防衛。
誘い込み、崩す。
徳川軍は、徐々に追い詰められていく。
やがて、退却。
だが――逃がさない。
昌幸、追撃開始。
さらに、砥石城より信幸隊が出撃。
側面から襲いかかる。
そして矢沢頼康も参戦。
三方からの挟撃。
徳川軍は崩壊した。
逃げる先は、神川。
だがそれは――死地。
押し込まれた兵は次々と川へ落ち、
溺死。
戦場は、一方的な殲滅戦へと変わった。
真田軍の損害――わずか40。
対して徳川軍は1300の兵を失う大敗。
これが――
第一次上田合戦。
家康は知る。
この男の危険さを。
知略、胆力、そして裏切りすら武器にする男――真田昌幸。
後年。
家康は一つの策を講じる。
重臣・本多忠勝の娘、小松姫を
昌幸の嫡男・信幸に嫁がせる。
敵ではなく――取り込むために。
それほどまでに、
真田昌幸という存在は、
“無視できぬ男”だったのである。
---第二次上田合戦---
慶長5年(1600年)6月――
天下は再び、乱れる。
豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は、
会津の上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、討伐を決断した。
「謀反の兆しあり」
その一言で、大軍が東へと動き出す。
この時、真田昌幸もまた、家康の陣にあった。
嫡男・信幸は、本多忠勝の娘婿。
次男・信繁もまた、父とともに従軍していた。
真田は、徳川の一員――
誰もがそう思っていた。
だが、その背後で動く影があった。
石田三成。
家康不在の隙を突き、挙兵。
毛利輝元を総大将に据え、
「徳川家康弾劾状」を諸大名へ送りつける。
天下を二分する戦い――
関ヶ原の火種が、ここに灯った。
下野・犬伏。
ここで、運命が分かれる。
三成の書状を受け取った昌幸は、決断する。
嫡男・信幸を東軍に残し――
次男・信繁とともに、西軍へ。
父と弟は西へ。
兄は東へ。
真田一族、分裂。
それは、生き残るための策だった。
昌幸は、ただちに上田へ引き返す。
再び、あの城が舞台となる。
家康は動く。
息子・徳川秀忠に、3万8千の大軍を与えた。
本多正信、榊原康政、大久保忠隣――
歴戦の猛将を従え、中山道制圧を命じる。
目的はただ一つ。
――西軍との決戦へ、間に合うこと。
9月2日。
秀忠軍、信濃・小諸城へ入る。
対する昌幸――兵わずか2千。
圧倒的戦力差。
だが、昌幸は動じない。
翌3日。
昌幸は、意外な手を打つ。
「城を明け渡そう」
信幸を通じ、降伏と助命を申し入れた。
初陣の秀忠は、これを受け入れる。
「恐れたか」
そう、侮った。
だが――
翌日。
昌幸の態度は、一変する。
挑発。
あからさまな裏切り。
「なめるな……!」
秀忠、激怒。
上田城攻略を決断する。
9月5日。
秀忠は、砥石城攻めを命じる。
守るは、信繁。
だが――
信繁は戦わずして撤退。
上田城へ。
すべては、誘い。
6日。
上田城、完全包囲。
秀忠は、兵糧を断つべく稲の刈り取りを命じる。
これに対し、真田勢が迎撃。
小競り合いが続く。
時間だけが、過ぎていく。
その時。
軍監・榊原康政が進言する。
「上田城は捨てよ。
関ヶ原へ急ぐべし」
正論だった。
だが――
秀忠は、耳を貸さない。
昌幸への怒りが、判断を狂わせていた。
そして9月8日。
家康からの書状が届く。
「9日までに美濃赤坂へ着陣せよ」
その瞬間、秀忠は悟る。
――はめられた。
昌幸の狙いは、最初からこれだった。
足止め。
ただ、それだけのために。
上田城攻略、断念。
全軍、撤退。
関ヶ原へ、急行。
だが、間に合わない。
中山道は狭く大軍の移動は困難、
さらに大雨で川は氾濫。
進めど進めど、進めない。
そして――
9月15日。
関ヶ原、開戦。
だがそこに、秀忠軍の姿はなかった。
家康、激怒。
徳川家の嫡男は、天下分け目の決戦に間に合わなかった。
すべては――
真田昌幸、ただ一人に翻弄された結果だった。
戦後。
東軍の勝利。
秀忠を苦しめた昌幸と信繁は敗者となる。
紀伊・九度山へ配流。
天下に名を轟かせた策士は、表舞台から姿を消した。
一方、東軍に残った信幸は生き残る。
名を信之と改め、上田の地を与えられる。
真田は、途絶えなかった。
だが――
家康は忘れない。
二度にわたり、煮え湯を飲まされた城。
上田城。
それは、徹底的に破壊された。
もはや城ではない。
“消された”のだ。
その後、時代は移る。
真田は松代へ。
上田には仙石、そして松平。
城は再建されるも、かつての姿には戻らない。
だが、記憶は残る。
わずか二千で三万八千を翻弄した男。
天下を遅らせた城。
上田。
それは――
真田昌幸という「異才」が刻んだ、戦国最後の罠であった。

眞田神社の境内に残る「真田井戸」
この井戸、実は抜け穴となっていて、城北にある砦につながっているそうです。
籠城の時には兵糧米を運んだり、城兵の出入にも困らなかったそうです。
さすがは真田昌幸、抜け目がないですね( ´艸`)
+-眞田神社拝殿の移り変わり-+

眞田神社 拝殿(2009.5.4旦那撮影)
この頃はまだ屋根の千鳥破風などがないシンプルな拝殿でした。
御朱印集めが流行る前だったので、参拝される方は戦国ファンやお年寄りが多かったです。

眞田神社 拝殿(2011.7.1旦那撮影)
浜縁や屋根には千鳥破風が造られるなど、拝殿は綺麗に改修されていました。

眞田神社 拝殿(2022.6.9撮影)
前回訪問時から11年経って、千鳥破風や浜縁の真新しかった白木も、だいぶ黒くなって渋みが出てました。
境内には真田信繁公の銅像や伊勢神宮内宮遙拝所が設けられ、社務所前には「御朱印」の幟旗が立ち、多くの参拝者がいらっしゃいました。
お賽銭箱も大きくなり、社務所も御朱印専用窓口ができてお守りなどの種類もかなり豊富になっていました。
御朱印やお守りの郵送頒布にも対応してますのでご希望の方は、眞田神社公式HPをチェックしてみて下さい。

二の丸橋を出て目の前にある上田市観光会館の1階には真田幸村公の騎馬武者像が展示してありました。
こちらではお土産などを買うことができますので、ぜひお立ち寄りください!
上田城跡は、ただの史跡ではなく、真田昌幸の知略や覚悟が今も静かに息づく場所でした。
城の構えや地形、そして伝わる戦いの記録を辿ることで、当時の緊張感や駆け引きがよりリアルに感じられます。
そして、そんな歴史の舞台でいただく御朱印は、単なる記念ではなく、その土地の物語を持ち帰るような特別な一枚。
季節ごとに変わる意匠や直書きの温かみも、大きな魅力のひとつです。
歴史が好きな方はもちろん、御朱印巡りを楽しんでいる方にもぜひ訪れてほしい場所。
次に訪れるときは、また違う季節の御朱印とともに、さらに深くこの地の魅力を感じてみたいと思います。
2022.07.25 18:34 | comment(0)
【川中島古戦場八幡社】武田信玄VS上杉謙信、決戦の地へ ― 川中島古戦場と御朱印巡り
上杉VS武田の激闘‼第四次川中島の戦いで武田信玄が勝鬨を挙げた社「川中島古戦場八幡社」で御朱印2種と御朱印帳を拝受しました。
2022.06.08参拝
戦国時代、幾度も激突した武田信玄と上杉謙信。
その中でも最も激しい戦いとして知られるのが、永禄4年(1561年)の
「第四次川中島の戦い」
です。
霧が晴れた瞬間に始まった激戦、啄木鳥の戦法を巡る駆け引き、そして語り継がれる一騎打ち――。
数ある戦国合戦の中でも、ここまでドラマに満ちた戦いはそう多くありません。
今回は、そんな決戦の舞台・八幡原に鎮座する川中島古戦場八幡社を訪れ、御朱印と御朱印帳を拝受してきました。
歴史の息吹を感じながら歩く古戦場は、ただの史跡とは違う特別な空気に包まれています。
戦国屈指の激戦地で出会う御朱印――
そこには、この地に刻まれた物語がしっかりと息づいていました。

謙信・信玄一騎打ちの場面がデザインされた御朱印帳はとてもかっこよくて、ここに訪れたら絶対手に入れておくべきだと思います。
「川中島古戦場八幡社」
所在地:長野県長野市小島田町1362(川中島古戦場史跡公園内)
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越自動車道「長野IC」から約3分、JR長野駅から「松代行き」バスで「川中島古戦場」下車すぐ

境内入口には「武田・上杉両雄一騎打ちの地 八幡原」と刻まれた石碑が建っていました。
実際に一騎打ちがあったとされる場所は、ここから離れた場所にあります。
「武田信玄と上杉謙信の一騎打ち」
と言われますが、この頃、謙信はまだ出家しておらず名は政虎といいました。
八幡原で行われたと伝わる一騎打ちですが、上杉家の資料では、
「御幣川で行われ信玄が手傷を負って退却した」
と記載されています。
北越太平記には、徳川幕府のブレーンとなった大僧正・南光坊天海の目撃談も掲載されているそうですが、はたして激戦の繰り広げられている戦場の最前線に、本当に天海さんがいたんでしょうか?
武田側の資料、甲陽軍鑑では、
「白手拭で頭を包み、萌黄の胴肩衣姿で月毛の馬に乗った武者が、床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め、御中間頭・原大隅守が槍で馬を突き、騎馬武者は走り去った、後にこの時の騎馬武者が上杉政虎であったと判明した」
と記されていて、どちらの言い分が正しいのかは未だ判明していないそうです。

境内に入って左側に「川中島大合戦図」という第四次川中島の戦いの両軍布陣図があります。
5度12年に及んだ川中島の戦いの中でも第四次川中島の戦いは八幡原の戦いともいわれ、1番激しい戦闘が繰り広げられた歴史的な合戦でした。
第四次川中島の戦い
永禄4年(1561年)8月、越後の上杉政虎は、関東での後北条氏との戦の隙を突き、武田方の拠点である海津城攻略を目指して信濃へ侵攻しました。
総勢1万8千の軍勢のうち、5千を善光寺に残し、1万3千を率いて千曲川を渡河。
8月16日、長野盆地南端の妻女山に布陣します。
一方、海津城を守る春日虎綱から急報を受けた武田信玄は、甲府から2万の兵を率いて出陣。
千曲川を挟んで対峙する塩崎城に本陣を置き、妻女山の上杉軍を包囲する形をとりました。
しかし、両軍はしばらく動かず、膠着状態が続きます。
業を煮やした信玄は、政虎を誘い出すように八幡原を横断して海津城へ入城しました。
それでも戦局は動かず、士気低下を懸念した信玄は、山本勘助らに策を求めます。
そこで採用されたのが、有名な
「啄木鳥の戦法」
です。
別動隊が妻女山の上杉軍を奇襲し、山を下ってきた敵を八幡原で本隊が殲滅する――
という挟撃作戦でした。
ところがこの策は、前日の炊煙の異変から政虎に見破られてしまいます。
政虎は夜のうちに妻女山を下り、逆に八幡原へ布陣していました。
9月9日深夜、武田別動隊1万2千は密かに出発し、妻女山の背後へ回り込みます。
一方、信玄率いる本隊8千は八幡原に「鶴翼の陣」を展開しました。
そして翌朝――
川中島を覆っていた深い霧が晴れたその瞬間、信玄の目前には、すでに布陣を終えた上杉軍が現れます。
不意を突かれた武田軍に対し、政虎は「車懸りの陣」で猛攻を開始。
次々と兵を繰り出す波状攻撃により、武田本陣は一気に圧迫されていきました。
激戦の中で、信玄の実弟・武田信繁や山本勘助ら有力武将が討死。
本陣も壊滅寸前に追い込まれます。
そのとき――
上杉方の騎馬武者が信玄本陣へ突入。
床几に座る信玄に斬りかかりますが、信玄は軍配でこれを受け止めます。
さらに騎馬武者は三度斬りかかりますが、原虎吉の槍により退けられ、信玄は間一髪で窮地を脱しました。
やがて午前10時頃、妻女山を攻めていた武田別動隊が八幡原へ到着。
上杉軍を挟撃する形となり、戦局は一気に武田側へ傾きます。
形勢不利と判断した政虎は撤退を決断。
犀川を渡り善光寺方面へ退却しました。
こうしてこの戦いは武田軍の勝利に終わり、信玄は八幡社で勝鬨を挙げたと伝えられています。

海津城(2011.09.08旦那撮影)
🏯 海津城から松代城へ ― その歴史の変遷
海津城は、信濃の豪族・清野氏の居館を、甲斐の武田氏が接収。
その後、川中島一帯の戦略拠点として整備・拡張され、「海津城」と名付けられました。
天正10年(1582年)3月、織田信長によって武田氏が滅亡すると、海津城は織田家臣・森長可の居城となります。
しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死。
長可は信濃を放棄して撤退し、海津城は一時的に空白地となりました。
その後、この地へ進出してきた越後の上杉氏が支配。
上杉家臣となっていた村上国清(山浦景国)が城主となり、父・村上義清の菩提を弔うため、居館跡の一角に満泉寺を建立したと伝えられています。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ移封されると、海津城は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられました。
さらに慶長5年(1600年)には森忠政が入城し、この頃から「海津城」は「待城」と呼ばれるようになり、慶長8年(1603年)、松平忠輝の時代には「松城」と改称されました。
そして元和8年(1622年)真田信之が上田から移封されると、のちに三代藩主・幸道の時代に、幕命により「松代城」と改められます。
以後、松代城は松代藩の中心として、明治維新まで真田氏の居城であり続けました。

参道の鳥居
青銅製の扁額には金色の文字で八幡社と書かれています。

境内に建てられている一騎打ちの銅像
信玄に一騎打ちを挑んだ騎馬武者、実は上杉政虎ではなく上杉家臣で旗本先陣を務めた荒川長実だったというのが有力な説なんだそうです。
荒川長実は、上杉謙信の影武者も務めたという逸話もあるらしいです。

川中島古戦場八幡社は平安時代中頃、河内源氏頼清流の氏族・源顕清が当地に八幡大武神を勧請した事が由来と伝わっています。
顕清は、白河院蔵人を務め院昇殿を許された身分でしたが、嘉保元年(1094年)8月、堀河天皇の六位蔵人だった兄・源惟清が白河院を呪詛した咎により失脚し、それに連座して信濃国に配流されました。
のちに顕清の養子となった甥・盛清の子・為国が、信濃村上氏の家祖とも伝わっています。

御朱印は武田家・上杉家家紋入りなど、6種類ありました。

拝受した御朱印帳に直書きで頂いた通常御朱印。
このほか、両家家紋入りの御朱印も書置きで頂きました。
川中島古戦場は、単なる観光地ではなく、武田と上杉が命を懸けてぶつかり合った“生きた歴史の舞台”でした。
八幡原の地形や布陣を思い浮かべながら歩くことで、教科書では感じられない臨場感を味わうことができます。
そして、この地でいただく御朱印や御朱印帳は、戦国の記憶を今に伝える特別な存在。
とくに一騎打ちをモチーフにした御朱印帳は、歴史好きなら思わず手に取りたくなる魅力があります。
武田信玄と上杉謙信、二人の名将がしのぎを削った地を実際に訪れることで、戦国の世界はよりリアルに感じられるはずです。
歴史好きの方はもちろん、御朱印巡りを楽しんでいる方にもおすすめしたい場所。
次は季節を変えて訪れ、また違った表情の古戦場と御朱印に出会ってみたいと思います。
2022.06.08参拝
戦国時代、幾度も激突した武田信玄と上杉謙信。
その中でも最も激しい戦いとして知られるのが、永禄4年(1561年)の
「第四次川中島の戦い」
です。
霧が晴れた瞬間に始まった激戦、啄木鳥の戦法を巡る駆け引き、そして語り継がれる一騎打ち――。
数ある戦国合戦の中でも、ここまでドラマに満ちた戦いはそう多くありません。
今回は、そんな決戦の舞台・八幡原に鎮座する川中島古戦場八幡社を訪れ、御朱印と御朱印帳を拝受してきました。
歴史の息吹を感じながら歩く古戦場は、ただの史跡とは違う特別な空気に包まれています。
戦国屈指の激戦地で出会う御朱印――
そこには、この地に刻まれた物語がしっかりと息づいていました。

謙信・信玄一騎打ちの場面がデザインされた御朱印帳はとてもかっこよくて、ここに訪れたら絶対手に入れておくべきだと思います。
「川中島古戦場八幡社」
所在地:長野県長野市小島田町1362(川中島古戦場史跡公園内)
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越自動車道「長野IC」から約3分、JR長野駅から「松代行き」バスで「川中島古戦場」下車すぐ

境内入口には「武田・上杉両雄一騎打ちの地 八幡原」と刻まれた石碑が建っていました。
実際に一騎打ちがあったとされる場所は、ここから離れた場所にあります。
「武田信玄と上杉謙信の一騎打ち」
と言われますが、この頃、謙信はまだ出家しておらず名は政虎といいました。
八幡原で行われたと伝わる一騎打ちですが、上杉家の資料では、
「御幣川で行われ信玄が手傷を負って退却した」
と記載されています。
北越太平記には、徳川幕府のブレーンとなった大僧正・南光坊天海の目撃談も掲載されているそうですが、はたして激戦の繰り広げられている戦場の最前線に、本当に天海さんがいたんでしょうか?
武田側の資料、甲陽軍鑑では、
「白手拭で頭を包み、萌黄の胴肩衣姿で月毛の馬に乗った武者が、床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め、御中間頭・原大隅守が槍で馬を突き、騎馬武者は走り去った、後にこの時の騎馬武者が上杉政虎であったと判明した」
と記されていて、どちらの言い分が正しいのかは未だ判明していないそうです。

境内に入って左側に「川中島大合戦図」という第四次川中島の戦いの両軍布陣図があります。
5度12年に及んだ川中島の戦いの中でも第四次川中島の戦いは八幡原の戦いともいわれ、1番激しい戦闘が繰り広げられた歴史的な合戦でした。
第四次川中島の戦い
永禄4年(1561年)8月、越後の上杉政虎は、関東での後北条氏との戦の隙を突き、武田方の拠点である海津城攻略を目指して信濃へ侵攻しました。
総勢1万8千の軍勢のうち、5千を善光寺に残し、1万3千を率いて千曲川を渡河。
8月16日、長野盆地南端の妻女山に布陣します。
一方、海津城を守る春日虎綱から急報を受けた武田信玄は、甲府から2万の兵を率いて出陣。
千曲川を挟んで対峙する塩崎城に本陣を置き、妻女山の上杉軍を包囲する形をとりました。
しかし、両軍はしばらく動かず、膠着状態が続きます。
業を煮やした信玄は、政虎を誘い出すように八幡原を横断して海津城へ入城しました。
それでも戦局は動かず、士気低下を懸念した信玄は、山本勘助らに策を求めます。
そこで採用されたのが、有名な
「啄木鳥の戦法」
です。
別動隊が妻女山の上杉軍を奇襲し、山を下ってきた敵を八幡原で本隊が殲滅する――
という挟撃作戦でした。
ところがこの策は、前日の炊煙の異変から政虎に見破られてしまいます。
政虎は夜のうちに妻女山を下り、逆に八幡原へ布陣していました。
9月9日深夜、武田別動隊1万2千は密かに出発し、妻女山の背後へ回り込みます。
一方、信玄率いる本隊8千は八幡原に「鶴翼の陣」を展開しました。
そして翌朝――
川中島を覆っていた深い霧が晴れたその瞬間、信玄の目前には、すでに布陣を終えた上杉軍が現れます。
不意を突かれた武田軍に対し、政虎は「車懸りの陣」で猛攻を開始。
次々と兵を繰り出す波状攻撃により、武田本陣は一気に圧迫されていきました。
激戦の中で、信玄の実弟・武田信繁や山本勘助ら有力武将が討死。
本陣も壊滅寸前に追い込まれます。
そのとき――
上杉方の騎馬武者が信玄本陣へ突入。
床几に座る信玄に斬りかかりますが、信玄は軍配でこれを受け止めます。
さらに騎馬武者は三度斬りかかりますが、原虎吉の槍により退けられ、信玄は間一髪で窮地を脱しました。
やがて午前10時頃、妻女山を攻めていた武田別動隊が八幡原へ到着。
上杉軍を挟撃する形となり、戦局は一気に武田側へ傾きます。
形勢不利と判断した政虎は撤退を決断。
犀川を渡り善光寺方面へ退却しました。
こうしてこの戦いは武田軍の勝利に終わり、信玄は八幡社で勝鬨を挙げたと伝えられています。

海津城(2011.09.08旦那撮影)
🏯 海津城から松代城へ ― その歴史の変遷
海津城は、信濃の豪族・清野氏の居館を、甲斐の武田氏が接収。
その後、川中島一帯の戦略拠点として整備・拡張され、「海津城」と名付けられました。
天正10年(1582年)3月、織田信長によって武田氏が滅亡すると、海津城は織田家臣・森長可の居城となります。
しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死。
長可は信濃を放棄して撤退し、海津城は一時的に空白地となりました。
その後、この地へ進出してきた越後の上杉氏が支配。
上杉家臣となっていた村上国清(山浦景国)が城主となり、父・村上義清の菩提を弔うため、居館跡の一角に満泉寺を建立したと伝えられています。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ移封されると、海津城は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられました。
さらに慶長5年(1600年)には森忠政が入城し、この頃から「海津城」は「待城」と呼ばれるようになり、慶長8年(1603年)、松平忠輝の時代には「松城」と改称されました。
そして元和8年(1622年)真田信之が上田から移封されると、のちに三代藩主・幸道の時代に、幕命により「松代城」と改められます。
以後、松代城は松代藩の中心として、明治維新まで真田氏の居城であり続けました。

参道の鳥居
青銅製の扁額には金色の文字で八幡社と書かれています。

境内に建てられている一騎打ちの銅像
信玄に一騎打ちを挑んだ騎馬武者、実は上杉政虎ではなく上杉家臣で旗本先陣を務めた荒川長実だったというのが有力な説なんだそうです。
荒川長実は、上杉謙信の影武者も務めたという逸話もあるらしいです。

川中島古戦場八幡社は平安時代中頃、河内源氏頼清流の氏族・源顕清が当地に八幡大武神を勧請した事が由来と伝わっています。
顕清は、白河院蔵人を務め院昇殿を許された身分でしたが、嘉保元年(1094年)8月、堀河天皇の六位蔵人だった兄・源惟清が白河院を呪詛した咎により失脚し、それに連座して信濃国に配流されました。
のちに顕清の養子となった甥・盛清の子・為国が、信濃村上氏の家祖とも伝わっています。

御朱印は武田家・上杉家家紋入りなど、6種類ありました。

拝受した御朱印帳に直書きで頂いた通常御朱印。
このほか、両家家紋入りの御朱印も書置きで頂きました。
川中島古戦場は、単なる観光地ではなく、武田と上杉が命を懸けてぶつかり合った“生きた歴史の舞台”でした。
八幡原の地形や布陣を思い浮かべながら歩くことで、教科書では感じられない臨場感を味わうことができます。
そして、この地でいただく御朱印や御朱印帳は、戦国の記憶を今に伝える特別な存在。
とくに一騎打ちをモチーフにした御朱印帳は、歴史好きなら思わず手に取りたくなる魅力があります。
武田信玄と上杉謙信、二人の名将がしのぎを削った地を実際に訪れることで、戦国の世界はよりリアルに感じられるはずです。
歴史好きの方はもちろん、御朱印巡りを楽しんでいる方にもおすすめしたい場所。
次は季節を変えて訪れ、また違った表情の古戦場と御朱印に出会ってみたいと思います。
2022.07.24 18:17 | comment(0)
【坂城神社】武田信玄を二度破った男、村上義清が崇敬した「坂城神社」を巡る歴史旅
北信の猛将・村上義清も崇敬した「坂城神社(さかきじんじゃ)」で御朱印を頂きました。
2022.06.08参拝

「坂城神社」
所在地:長野県埴科郡坂城町坂城1205
駐車場:あり(無料)
アクセス:しなの鉄道坂城駅から徒歩約10分
長野県の中北部に位置する坂城町。
ここは戦国時代、あの武田信玄を二度も破った北信濃の雄・村上義清公の本拠地でした。今回は、村上氏が守護神として篤く崇敬した歴史ある「坂城神社」の魅力をご紹介します。
■坂城神社の歴史
景行天皇40年、第12代景行天皇の皇子・日本武尊が東国征伐の帰途、五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした事が創建の由来と伝わります。
白鳳2年(673年)治国平天下を祈願して社殿が奉建されたそうです。
創建については神社に伝わる景行天皇40年と、社殿が奉建された白鳳2年(673年)で意見が分かれているようですが、管理人は日本武尊が五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした時が創建と捉えています。
日本古代史の英雄が創建したという方がとてもワクワクします!(^^)!

「境内の鳥居」
参道や境内は無人とは思えないくらい清掃がされていました。
地域の方々に大切に守られている地域に根差した神社だと思いました。
■歴史を感じる石造物
静かな境内を歩くと、村上氏の時代から続く祈りの気配を感じることができます。
天和2年(1682年)に寄進された町指定文化財の石造狛犬は必見です。
小ぶりながらも胸板が厚く、鋭い眼差しで境内を守っています。
本殿には諏訪大社と同じ「梶の葉」の紋が刻まれています。
村上氏が諏訪明神を篤く信仰していた名残かもしれません。

「坂城神社拝殿」
千鳥破風などはなくシンプルな造りとなっています。
⛩️ 坂城大宮と村上氏 ― 神社に刻まれた戦国の記憶
この神社の背後にそびえる五里ヶ峯(ごりがみね)には、信濃村上氏の居城・葛尾城(かつらおじょう)が築かれていました。
そのため歴代の城主からは「坂城大宮」と称され、篤く崇敬されていたと伝えられています。
坂城神社はまさに、城下を見守る鎮守の社だったのです。
また、村上氏の居館は現在の境内に隣接する場所に構えられており、天正10年(1582年)には、村上国清がその跡地の一角に満泉寺を建立しました。
これは父・村上義清の菩提を弔うためとされています。
天文22年(1553年)武田信玄の侵攻により葛尾城は落城。
この際、坂城神社も兵火に遭い、社殿や貴重な古記録が焼失してしまいました。
村上氏は越後の長尾景虎を頼って落ち延びることとなり、それに伴い坂城大宮も一時衰退してしまいます。
その後、永禄11年(1568年)に武田信玄が社領を寄進し、神社は再興されました。
さらに天正7年(1579年)には武田勝頼によっても社領が安堵され、再び信仰の場としての姿を取り戻しました。
⚔️ 北信濃の覇者・村上義清と武田軍の激突
信濃村上氏は、村上義清の代に北信濃最大の勢力を誇っていました。
そこへ信濃侵攻を進める甲斐の武田晴信が進出し、両者は激しく衝突します。
天文17年(1548年)2月14日、上田原の戦い。
当初は優勢だった武田軍でしたが、義清はその隙を突いて先鋒を崩壊させます。
混乱した武田軍は陣形を維持できず、ついには本陣にまで攻め込まれる事態に。
晴信自身も負傷して退却し、戦いは村上軍の大勝利に終わりました。
この戦いでは、武田家の重臣である板垣信方(武田四天王の1人で諏訪郡代)と甘利虎泰(武田24将の1人で譜代家老)という超大物が討死してしまいます。
無敗を誇っていた晴信にとって、初の大きな挫折となりました。
天文19年(1550年)、武田軍は再び信濃へ侵攻し、要衝・砥石城を攻撃します。
しかし、籠城する村上勢はこれを耐え抜き、葛尾城から駆けつけた義清本隊とともに武田軍を挟撃。
劣勢となった武田軍は撤退を余儀なくされますが、その過程で大損害を受け、重臣・横田高松をはじめ多くの将兵を失いました。
この大敗は「砥石崩れ」と呼ばれ、武田軍にとって屈指の敗戦として知られています。

書置きで拝受した御朱印、参拝日は自身で書入れるようになっています。
御朱印やお札などは、お賽銭箱の裏に箱がありその中に入っているものを自分で取って頂きます。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。
坂城の地は、神社と城、そして武将たちの興亡が重なり合う、まさに“戦国の記憶が息づく場所”でした。
武田信玄という巨大な敵に立ち向かった義清公に思いを馳せながら、ゆっくりと参拝してみてはいかがでしょうか。
2022.06.08参拝

「坂城神社」
所在地:長野県埴科郡坂城町坂城1205
駐車場:あり(無料)
アクセス:しなの鉄道坂城駅から徒歩約10分
長野県の中北部に位置する坂城町。
ここは戦国時代、あの武田信玄を二度も破った北信濃の雄・村上義清公の本拠地でした。今回は、村上氏が守護神として篤く崇敬した歴史ある「坂城神社」の魅力をご紹介します。
■坂城神社の歴史
景行天皇40年、第12代景行天皇の皇子・日本武尊が東国征伐の帰途、五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした事が創建の由来と伝わります。
白鳳2年(673年)治国平天下を祈願して社殿が奉建されたそうです。
創建については神社に伝わる景行天皇40年と、社殿が奉建された白鳳2年(673年)で意見が分かれているようですが、管理人は日本武尊が五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした時が創建と捉えています。
日本古代史の英雄が創建したという方がとてもワクワクします!(^^)!

「境内の鳥居」
参道や境内は無人とは思えないくらい清掃がされていました。
地域の方々に大切に守られている地域に根差した神社だと思いました。
■歴史を感じる石造物
静かな境内を歩くと、村上氏の時代から続く祈りの気配を感じることができます。
天和2年(1682年)に寄進された町指定文化財の石造狛犬は必見です。
小ぶりながらも胸板が厚く、鋭い眼差しで境内を守っています。
本殿には諏訪大社と同じ「梶の葉」の紋が刻まれています。
村上氏が諏訪明神を篤く信仰していた名残かもしれません。

「坂城神社拝殿」
千鳥破風などはなくシンプルな造りとなっています。
⛩️ 坂城大宮と村上氏 ― 神社に刻まれた戦国の記憶
この神社の背後にそびえる五里ヶ峯(ごりがみね)には、信濃村上氏の居城・葛尾城(かつらおじょう)が築かれていました。
そのため歴代の城主からは「坂城大宮」と称され、篤く崇敬されていたと伝えられています。
坂城神社はまさに、城下を見守る鎮守の社だったのです。
また、村上氏の居館は現在の境内に隣接する場所に構えられており、天正10年(1582年)には、村上国清がその跡地の一角に満泉寺を建立しました。
これは父・村上義清の菩提を弔うためとされています。
天文22年(1553年)武田信玄の侵攻により葛尾城は落城。
この際、坂城神社も兵火に遭い、社殿や貴重な古記録が焼失してしまいました。
村上氏は越後の長尾景虎を頼って落ち延びることとなり、それに伴い坂城大宮も一時衰退してしまいます。
その後、永禄11年(1568年)に武田信玄が社領を寄進し、神社は再興されました。
さらに天正7年(1579年)には武田勝頼によっても社領が安堵され、再び信仰の場としての姿を取り戻しました。
⚔️ 北信濃の覇者・村上義清と武田軍の激突
信濃村上氏は、村上義清の代に北信濃最大の勢力を誇っていました。
そこへ信濃侵攻を進める甲斐の武田晴信が進出し、両者は激しく衝突します。
天文17年(1548年)2月14日、上田原の戦い。
当初は優勢だった武田軍でしたが、義清はその隙を突いて先鋒を崩壊させます。
混乱した武田軍は陣形を維持できず、ついには本陣にまで攻め込まれる事態に。
晴信自身も負傷して退却し、戦いは村上軍の大勝利に終わりました。
この戦いでは、武田家の重臣である板垣信方(武田四天王の1人で諏訪郡代)と甘利虎泰(武田24将の1人で譜代家老)という超大物が討死してしまいます。
無敗を誇っていた晴信にとって、初の大きな挫折となりました。
天文19年(1550年)、武田軍は再び信濃へ侵攻し、要衝・砥石城を攻撃します。
しかし、籠城する村上勢はこれを耐え抜き、葛尾城から駆けつけた義清本隊とともに武田軍を挟撃。
劣勢となった武田軍は撤退を余儀なくされますが、その過程で大損害を受け、重臣・横田高松をはじめ多くの将兵を失いました。
この大敗は「砥石崩れ」と呼ばれ、武田軍にとって屈指の敗戦として知られています。

書置きで拝受した御朱印、参拝日は自身で書入れるようになっています。
御朱印やお札などは、お賽銭箱の裏に箱がありその中に入っているものを自分で取って頂きます。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。
坂城の地は、神社と城、そして武将たちの興亡が重なり合う、まさに“戦国の記憶が息づく場所”でした。
武田信玄という巨大な敵に立ち向かった義清公に思いを馳せながら、ゆっくりと参拝してみてはいかがでしょうか。
2022.07.21 17:55 | comment(0)
お知らせ
インスタグラム再開しました!
記事検索
カテゴリー
月別アーカイブ
Original Sticker
We give this sticker as a small gift to international visitors we meet during our visits to shrines and temples.
